聖書のみことば
2013年5月
5月5日 5月12日 5月19日 5月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 五つのパンと二匹の魚
5月第1主日礼拝 2013年5月5日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第6章30~44節

6章<30節>さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。<31節>イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。<32節>そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。<33節>ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。<34節>イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。<35節>そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。<36節>人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」<37節>これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。<38節>イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」<39節>そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。<40節>人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。<41節>イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。<42節>すべての人が食べて満腹した。<43節>そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。<44節>パンを食べた人は男が五千人であった。

 遣わされた場所から戻って来た弟子たちは報告を終え、主イエスより「休息のとき、神との交わりのとき、祈りの時を持つように」と言われ、主イエスと共に舟に乗って、人里離れた所へと向かいました。

 ところが33節、「多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた」とあります。群衆は先回りしていたのです。人里離れて所へ行くことが「人を避けて」のことであれば、これは迷惑千万な話です。けれども主イエスは、このことを嘆かれたり、疲れているから、煩わしいからと群衆を追い返したりはなさらないのです。34節「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」とあります。先回りをしてまで主イエスのもとに来た群衆を見て「深く憐れまれ」ました。群衆には羊飼いのような善き導き手が必要であることを思い、憐れんでくださったのです。

 ここで示されていることは何でしょうか。
 まず、主イエスは苛立っておられないということです。疲れを訴えてはおられない。詰めかけた人々を煩わしいと思わず、却って憐れみを持たれました。その根底にあることは何か。主イエスの視点は何か。それは自分を第一にしていないということです。人々に目を向けておられるのです。まずこのことを覚えたいと思います。
 主イエスの思いは人々のため、人々の救いのためなのです。究極的に、主イエスは人々の救いのために「人とまでなって」この世においでくださいました。主イエスは人々の救いのために、人々に仕えてくださるお方なのです。そういうお方として、主はここで詰めかけた人々を憐れんでおられます。

 覚えるべきことがあります。奉仕でもボランティアでも、それが自分のための働きであるとトラブルが起こるのです。他者のためと言いながら往々にして自分のためとなってしまう危険があります。こんなに一生懸命尽くしているのに評価されないと思うと、そこに憎しみの感情が生まれるのです。
 主イエスの業は、ご自身のためではありません。けれども、私どもは主イエスではないのです。多くやればやっただけ思いも強くなる、それは誰にでもある思いであることを覚えておかなければなりません。
 主イエスの視点は「他者のために」という視点です。それは「ご自身を犠牲にしてまで」という思いであり、それは「十字架の出来事」となるのです。
 主イエスの憐れみには「他者のためにご自分を献げる」という思いがあります。しかし、人の思いは自己中心で、やればやるほど他からの評価を求めては失望するのです。自分という捕われを拭い去れない。それ程に人は罪深い。けれども、主イエスは憐れみ深いのです。いや罪深い者をこそ、主イエスは憐れんでくださるのです。

 主イエスの憐れみの深さが人の罪に勝るゆえに、私どもの救い、人の救いがあります。人には救いが必要であることを、主イエスはご存知です。罪のゆえに、人は自らの内に救いを見出すことはできません。主イエスの憐れみこそが人の救いです。主の憐れみによって、人は救われるのです。

 主イエスは、ここで何をなさったでしょうか。「いろいろと教え始められた」とあります。主イエスの憐れみは何によって示されたかというと、神の言葉を教えてくださることによって示されました。神の憐れみは、神の言葉によって表されるのです。
 私どもが「主の御言葉をいただく」ことは「神の憐れみをいただく」ことです。神の御言葉こそが、私どもの救いなのです。
 今年度、愛宕町教会の教会標語は「御言葉に導かれての信仰生活」詩編119編105節ですが、御言葉こそが私どもの導き手であります。「救い」とは「慈しみなる神に至る」ということです。神の御言葉によってこそ、神に出会うのです。「神の御言葉に聴く」ことによって「神との生ける交わり」ということを経験し、その実存によって「神の導き」ということを知るのです。
 「慈しみの神との実感を持っての交わり」、それを主イエスは人々に「御言葉を教える」ことによって与えてくださっております。それが、主のもとに押し寄せて来た人々に与えられた恵みでした。

 35節「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った」と記されております。しばしば、人々と主イエスとの麗しい交わりの時を中断させるものとして、弟子たちが登場いたします。ですが、これは弟子たちの群衆に対する配慮の言葉です。自分たちもお腹がすいたのかもしれませんが、人々を解散させようとする彼らなりの配慮なのです。群衆は勝手にやって来たのですから、弟子たちには責任はないでしょう。大勢の群衆に食事を提供することは不可能なのですから、当然、このように言ってもおかしくないのです。幕引きというものは人の知恵です。ここで終わろうとしたのです。しかし、ここでの結末は違っていました。

 37節「これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった。弟子たちは、『わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか』と言った」と記されております。弟子たちの実感していることは、食料の手当は「できない。不可能」ということでした。けれども、その「できない。不可能」に対する主イエスの言葉は「できる。可能」であると言っているのです。これは驚くべきことです。本来出来ないことなのに「出来る」と主イエスはおっしゃる。ここに主イエスと弟子たちとの違いがあります。主イエスの思いからすれば、それは「出来る」のです。ですから、主の弟子であれば、主の「出来る」という思いによって、「あなたがたにも出来る」と、主は言ってくださっているのです。それは、主の力、権威、権能によるのです。

 けれども、言われても理解できずに、弟子たちは現実を訴えます。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と。当時、1デナリオンは労働者の一日分の賃金でしたから、今の感覚でいけば200日分の賃金、200万円というところでしょうか。しかも、夕刻にパンを売っている訳はありません。ですから、人々を解散させたとしても、元々人々が食料を調達することは絶対に不可能なことだったのです。

 この弟子たちの言葉に、主イエスは38節「パンは幾つあるのか。見て来なさい」と言われました。魚とは言われておりませんが、ガリラヤ湖畔であることから、「魚」も副菜としてあったということでしょう。ギリシャ語で「イエス・キリストは神の御子・救い主」という言葉の頭文字を並べると「魚=イクスース(ΙΧΘΥΣ)」となることから、「魚」は初代教会においては「救い主イエス・キリスト」のしるしとされていました。
 主イエスに言われたことを弟子たちが確かめに行くと「五つのパンと二匹の魚」がありました。

 39節「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった」と記されております。この「青草の上」とは、私どもの教会にとっては大事な言葉です。この会堂の礼拝堂、集会室の絨毯は緑色で、それは「青草」を表しております。私どもは礼拝に集い、主イエスが組に分けて座らせてくださった「青草の上」に座るのです。ですから、ここは「青草の原」であり、ここで、この礼拝において、私どもは主イエスとの交わりのうちにいるのです。

 41節「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」と記されております。ここでの主の祈りは、聖餐の祈りではありません。家族が食卓を囲むとき、一家の主人のする夕べの感謝の祈り、神がパンを与えてくださったことを感謝し、神を讃美する祈りです。そのパンを、主は「弟子たちに配らせて」おられます。人々にパンを与えることは不可能だと言った弟子たちに配らせておられるのです。祝福の元になるパンを、出来ないと言った弟子たちが配り、主の御業をなしているのです。主イエスが「弟子たちに渡して」くださるから、託してくださるから、その業は可能になるのです。
 主の御言葉に従うときに大切なことがあります。それは「できるか、できないか」ということではなく、御言葉に従って「行うかどうか」ということです。成功するか失敗するかではない。主の御業は失望ではなく、喜びの業なのです。ですから、主の業に参与させていただくとき、私どもは喜びを見ても、失望することはないのです。

 43節「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」とあります。この記述は理解不可能です。こんなことは有り得ないのです。けれども、ここで大事なことは何なのでしょうか。
 主イエスは、パンを弟子たちに渡されて、「食べ飽きるほど、あげなさい」と言われた訳ではありません。また弟子たちも、人々の空腹を満たすことが大事であれば、まず、誰がパンを持っているか確かめ、それぞれに必要に応じて分け与えてほしいと呼びかけても良かったはずですが、そんなこともしておりません。
 ですからここで、人々は何のために主イエスのもとに集まったのかを考えなければなりません。人々は食事のために集まったのではありませんでした。また、人々に食べさせることを目的とするならば、これは不可能なことです。人々は、食べることを期待して来ているのではありません。人々は、主の力を、癒しを求めて来ているのです。癒しを求めているのであって、満腹になることを求めているのではないことを覚えなければなりません。
 人々はここで、食べること以上に満ち足りていたのだということを覚えたいと思います。夕刻まで人々が居続けたのはなぜでしょうか。主イエスが「帰ってはならない、ここに居るように」と言われたわけではありません。「主イエスの憐れみ、主イエスの慈しみに満たされていた」から、だから主の側に居続けたのです。そうでなければ、人々は空腹を覚えて食事のために立ち去って行ったことでしょう。ここでは、食べること以前に「主によって人々が満たされていた」ことが前提としてあるのです。
 食べること以上に心満たされていれば、人々は、持っているものを出し合ったことでしょう。心満たされていれば、物に執着しなくなるのです。
 人々は、主イエスの恵みに満たされているからこそ、誰一人として立ち去らず、一かけらのパンでも満たされ慰められたのです。また、多くのものが献げられたことでしょう。

 「人はパンのみに生きるにあらず」と聖書は語っております。神の言葉こそが、人々を満ち足りさせるのです。「御言葉が人々を満たしている」、それがここに言われていることです。そして、そこにこそ、私どもの信仰があります。
 人々が必要としているのは、パン以上に、神との交わり、主イエスの慈しみです。主の恵みに満たされていること、それが私どもの糧です。

 主イエス・キリストの慈しみが、今ここにあります。主イエスの憐れみがあります。それこそが私どもを満たしているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

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