聖書のみことば
2013年2月
2月3日 2月10日 2月17日 2月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 いと高き神の子イエス
2月第3主日礼拝 2013年2月17日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第5章1~20節

5章<1節>一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。<2節>イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。<3節>この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。<4節>これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。<5節>彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。<6節>イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、<7節>大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」<8節>イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。<9節>そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。<10節> そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。<11節>ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。<12節>汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。<13節>イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。<14節>豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。<15節>彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。<16節>成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。<17節>そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。<18節>イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。<19節>イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」<20節>その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

 1節「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」と記されております。主イエスの一行は向こう岸に行かれました。これは4章35節以下を受けていることです。主イエスはガリラヤ湖のほとりで群衆たちに教え、夕方になって「向こう岸に渡ろう」言われ、弟子たちと共に舟で向こう岸に行かれたのです。
 ここを読んでの印象は、向こう岸にも人々がいますから、ガリラヤ湖のほとりと同じ状況のように思いますが、そうではありません。「ゲラサ人の地方」はガリラヤから50キロも離れており、一日で行き着く場所ではありません。あとに「デカポリス」という地名が出て来ますが、デカポリスは10の町という意味で、そこは異邦人の地でした。主イエスは、異邦人の地に行かれたのです。マルコによる福音書では、このことは特別な意味を持っております。ここまでは、主イエスはユダヤ人の地におられたのですが、ここで主は異邦人の地に行かれました。ローマ直轄支配の異邦人の地に、主イエスはわざわざ弟子を伴って行かれたということです。
 主イエスが敢えて行かれることで、異邦人の地も主イエスの宣教の地であることを、主ご自身が示してくださっております。異邦人の地も、主の憐れみの場なのです。主イエスが行かれる所は、神の憐れみの場です。ユダヤ人にとって「汚れ」に過ぎない異邦人の地も、神の憐れみの地なのです。

 2節「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」。ユダヤ人にとって「死」は「汚れ」ですから、「墓場」は「汚れ」です。死の霊に取りつかれている、それが「汚れた霊」です。死の力が及んでいる、それが「悪霊」であり「汚れ」で示されていることです。
 「死」それは、神との交わりを失っていることです。ですから、「墓=穴」は、神無き「死の支配の入口」なのです。
 けれども、キリスト者にとってはそうではありません。キリスト者にとって、死・墓は汚れではないのです。なぜならば、主イエスは十字架に死なれ、アリマタヤのヨセフの用意した墓に入られましたが、3日目に、その墓から甦られました。ですから、私どもにとって「墓」とは、主イエス・キリストと共に甦る「甦りの場」なのです。「墓」は「神と共に生きる永遠の命」への通過点であることを覚えなければなりません。主イエス・キリストを信じない者にとっては、死は終わりであり虚しいばかりですが、主を信じる者にとっては永遠の命への通過点なのです。
 主イエスの前に、死は力を持ちません。主は死に勝ち、甦られた方だからです。

 3節「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」。汚れた霊に取りつかれた人は、汚れた霊の支配のもとにあるのですから、悪霊そのものであることがここに示されていることです。「悪霊の力」とは、その人をつなぎとめておけない、人の力ではどうすることもできない力です。何かに取りつかれた人の心は、誰もどうすることもできないということがあります。時に私どもは、制御不能な人の思いを見たり聞いたりして、心痛むことがあるのです。制御不能なまでに荒れ狂うということが起こる。とても説明のできないこと、その本人自身にも分からない出来事を起こしてしまうということがあるのです。人の理性を超えた感情の発露、思いに働く「力」というものがあることを覚えておかなければなりません。

 5節「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」。このような彼を、誰も尋常な人に戻すことはできません。ですから、彼は共同体に入ることはできませんし、その苦しみゆえに自らを傷つけざるを得ないのです。「汚れた霊に取りつかれた人」とはどのような人か。人のどのような力によっても、この人を救うことはできない、そのような人物として記されております。

 6・7節「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい』」。悪霊は、主イエスがどんなお方かを知っているのです。ここで悪霊は、異邦人がイスラエルの神を指して言う「いと高き神」という言葉を使っております。それは、諸々の神に勝って「高い神」という意味です。ですから、悪霊は、主イエスが「いと高き神の子」であることを知っているのです。
 ここで悪霊は、主イエスを大声で呼んでおります。名を呼ぶということは、相手を知っているということを示すこと、「お前の出処は分かっているぞ」と、相手を支配することです。 ですから、主イエスを呼ぶということは、主に対する優位を示そうとしているわけですが、しかし悪霊も、自分に勝って力ある神の前には、ひざまずかないわけにはいかない、ゆえに、 主イエスに対して懇願する以外にないのです。悪霊も、主イエスの前には無力です。「かまわないでくれ、後生だから」と懇願することによって、自らが下であること、そして主イエスがいかなるお方であるかを証ししております。
  悪霊は、神の子の前にひれ伏さざるを得ませんでした。それは、神の子イエスが、悪霊に勝って力ある方であることを示しております。力ある方の前に立っていることは耐えられないことです。ですから、圧倒する神の力の前に、苦しまざるを得ないのです。
 悪霊が懇願していることによって、主イエスは悪霊に勝って力ある方、神の子として、神の権威を持つ方であることが示されております。

 悪霊の力とは、どのようなものでしょうか。それは、人に君臨し支配する力、人の思いを束縛する力です。 けれども、主イエスの力はそのようなものではありません。主イエスの力は「束縛から人を解き放つ力」です。束縛から解き放つ力ある方ですから、束縛しようとする者は、主の前に耐えられないのです。悪霊にとって主イエスは、同質ではなく、自分に勝った異質なものであるから、耐えられないのです。
  主イエスの力と悪霊の力は、まったく違うものです。悪霊の力はこの世の様々な力であって、人を強いる、人に強制する力です。人は、この世の束縛から逃れられないのです。この世には私どもを束縛する力がある、だからこそ、私どもは解放を、救いを、主イエス・キリストを必要としております。
 今、私どもを束縛しているものは何か。考えてみると良いでしょう。お金でしょうか。名声でしょうか。悪霊の力は、私どもの日常生活にはびこっているものであることを覚えなければなりません。
 人を苦しめているのは悪霊の力です。苦しんでいる人に平安を与えてくださる方、それが主イエス・キリストです。

 8節「イエスが、『汚れた霊、この人から出て行け』と言われたからである」とあります。ここは前後が逆の方が分かり易でしょう。主イエスが「出て行け」と言われたゆえに、そして主イエスが悪霊の力を退ける力ある方であるがゆえに、 悪霊は主の前で苦しまざるを得ませんでした。人々に苦しみを与えて止まない悪霊は、主の前に立って、自らが苦しいと訴えるのです。

 ここで覚えてよいことがあります。それは、主イエスが悪霊に「出て行け」と言われたことです。主イエスは、悪霊をやっつけることを目的としてはおられません。悪霊によって苦しんでいる人を、その苦しみから解き放とうとしてくださっているのです。悪霊と闘って勝とうとされているわけではありません。悪霊に、滅びよとは言っておられないのです。そうではなくて「苦しんでいる者に平安を与えてくださる」のです。主の御心は、悪霊に向かっているのではなく、苦しんでいる人に向かっております。主イエスは、苦しみにある者を憐れんでくださるお方なのです。
 神の憐れみ、主イエスの慈しみ、それが人を癒すのです。人を束縛から解き放つ、それゆえに、悪霊に「出て行け」と言ってくださったのです。

 悪霊の力、この世そのものの力は、私どもを束縛し苦しめます。けれども私どもは、その中で生きざるを得ない。しかしそのような私どもに、主は憐れみをもって臨んでくださる、そのことを覚えてよいのです。それゆえに「主イエス・キリストを信じる」ことは「平安」です。

 9節「名は何というのか」と、主イエスに問われた悪霊は「名はレギオン。大勢だから」と、答えざるを得ません。主の言葉を退けることは出来ないのです。「レギオン」とは、ローマ軍4,000から5,000の内の分団を示します。つまり、悪霊の全軍団であると言っているのです。ですから、主イエスの力は、悪霊の全軍団の力に勝っていることが示されております。

 私どもは、苦しみ悩むとき、覚えてよいのです。私どもを苦しめる力を超えて、主イエスの憐れみが勝って臨んでくださっていることを覚えてよいのです。苦しむ者を、主イエスは見捨ててはおかれません。苦しんでいる、そのところで、主が臨んでくださっている。たとえ私どもが主イエスを仰げなくとも、なおそこで、主の力が臨んでいてくださる。そして、悪霊に「失せよ」と言ってくださっているのです。

 私どもが知らなくとも、見えなくても、私どもが苦しむとき、主の慈しみが大いなるものとして私どもと共にあってくださる、そのことを思い起こすことが許されているのです。
 これこそ、私どもに与えられている恵みであることを、感謝をもって覚えたいと思います。

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