聖書のみことば
2013年10月
  10月6日 10月13日 10月20日 10月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら 音声でお聞きになりたい方は
こちらまでご連絡ください
 

 わたしの愛する子
10月第3主日礼拝 2013年10月20日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第9章2~13節

9章<2節>六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、<3節>服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。<4節>エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。<5節>ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」<6節>ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。<7節>すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」<8節>弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。<9節>一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。<10節>彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。<11節>そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。<12節>イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。<13節>しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

 5節「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう…』と、ペトロがわけの分からないことを言ったことが記されております。ペトロは「仮小屋を三つ建てましょう」と言いましたが、実際には建てておりません。ではなぜ、このようなことを思わず口にしたのでしょうか。

 イスラエルにとって「喜びの祭り」の最大のものは「仮庵の祭り」です。仮小屋を建て、小麦の収穫を喜んで、その仮小屋で一週間祝うのです。
 また「仮庵の祭り」には、もう一つ意味があります。イスラエルが「荒野の40年」を思い起こす時なのです。「荒野の40年」は天幕生活でした。エジプトの地で奴隷であった民が神の救いによって「出エジプト」し、約束の地に向かって「荒野」で過ごすのですが、荒野で民は「肉も野菜も食べられない」と、不平不満の民となってしまいます。本来奴隷だった者が救われたのにも拘らず、救われて我がままになってしまった、そのイスラエルの民が、「生活のすべては神によってある、神こそ拠り所である」ことを知るための経験、それが「荒野」での天幕生活なのです。
 ですから「荒野の40年」を思い起こして喜ぶことは、信仰の喜びです。奴隷の身から出エジプトした民は有象無象の統制の取れていない我がままな民でしたが、荒野で神の導きと御言葉によって整えられ、「神にある一つの民となる」経験をしたのです。そこに信仰の豊かさがあります。 奴隷の民・寄る辺なき民が、神によって「神の民」となるという「神がくださった恵みを味わう祭り」それが「仮庵の祭り」です。

 奴隷の民にとって収穫は主人のものですが、収穫を自分のものとして「恵みとしていただける」こと、それは神がくださった恵みに他なりません。そうであれば、収穫は「神がくださったもの」として「共に喜ぶ」ことができるのです。
 労働の喜びとは、神から与えられるものです。労働が自分だけのためであれば、収穫を共に喜ぶことが出来るでしょうか。「与えられたもの」だからこそ、「共に分かち合うことができる」のです。

 現代は、労働に対しては正当な報酬をと考えます。そこで「神なし」の出来事は、分かち合うことができないのです。自分の財産を守ろうとし囲い込む、どん欲さを持つのです。神を抜きにして獲得する恵みは、恵みを恵みとできずに自分で守ろうとするがゆえに、自己主張すれば争いが起ります。
 神の恵みの出来事として収穫を喜ぶこと、そこではまさしく聖書が記しますように「落ち穂拾い」ということがあるのです。収穫を終えた畑に落ち穂を残して、貧しい者が落ち穂を拾えるようにする。それこそが共生であり、分かち合うということです。自分のものとしないで、神からいただいた恵みとして、共に喜ぶのです。収穫をすべて自分のものとするならば、共生ということは起こりません。

 ここでペトロが「仮小屋を建てる」と言ったのは、あまりにも嬉しくて、嬉しいことと言えば「仮庵」だと連想し、口走ったのでしょう。しかしこのペトロの「仮小屋を建てる」という言葉から、「仮庵の祭り」が現代の労働について示唆を与えるものだと知ることができます。労働の対価が神の恵みと思えるならば幸いなのです。
 自分のものとするということの宗教的な問題は、自分のものが神聖性を持ち、そこに自分の領域をつくり偶像を作り出してしまうことです。自分の聖域としてしまうのです。ですから、偶像礼拝とは他の神を拝むということだけではなく、人が心の中で小さな我がものを作ってしまうことでもあるのです。

 「唯一なる神を共に覚える」、そこに「共に生きるという恵み、共同体の恵み」があります。
 イスラエルの民は奴隷の身分から解放され救われただけでは駄目で、そこではただ単に我がままな民に過ぎませんでした。そこから「神の導きと御言葉によって整えられ」て、初めて「神の民となる」のです。
 神に救われたからこそ、だからこそそこから、神の導きによって整えられることが必要です。神の導きと御言葉を必要とする者であることの実感を得るための祭り、それが仮庵の祭りなのです。
 同様に、私どももまた、常に御言葉を必要とする者であることを覚えたいと思います。神の御言葉と導きによって整えられていくことが必要なのです。

 6節に「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」と、弟子たちが「恐れていた」ことが記されております。一方で喜んでいながら、一方で恐れるとは、どういうことでしょうか。「真っ白に輝く主イエス」は、まさしく「神なる方、主イエス」です。ですから、この恐れは「神を目の当たりにした恐れ」なのです。神は人の存在を超えた「圧倒する存在」ですから、人は神の前に恐れざるを得ません。
 詩編8編に「主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます…あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは」と記されております。イスラエルは天にまたたく星に、神の創造の御業の圧倒する力を見て、神の偉大さを感じました。そして、自分の存在がいかに小さく無に等しいかを思ったのです。この詩は、無にすぎない者を顧みてくださる神を讃美する詩です。
 そのように、神の前に立つということは、自分の存在を無にしてしまう存在に出会うということです。ですから恐れるのです。それは、裁くという脅しを受けて恐れるということではありません。神を目の当たりにして「自分の小ささを知る」ということ、それが「神に出会う」ということなのです。そしてそのような「小さな者を顧みてくださる」、それが「神の在り方である」ことを覚えたいと思います。

 ペトロは、主の姿の言葉にできないほどの圧倒によって、それゆえに何も言えませんでした。そのような者に対して、7節「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした」と記されております。神が顕現されるときには、雲が覆うのです。3人の弟子たちに神が臨んでおられます。けれども、神を目の当たりにすれば耐えられずに人は死んでしまうゆえに、神は雲を伴って臨んでくださるのです。自らを隠しつつ、臨んでくださるのです。
 私どもにとっての「雲」はいろいろとあります。さまざまな形で雲を伴って、神は私どもに臨んでくださっているのです。それは究極には、十字架の主イエス・キリストを通して臨んでくださっているということでしょう。

 そして弟子たちが神の臨在にあい、神体験したときに示されることは何だったのでしょうか。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と、神は宣言されました。神ご自身が明らかにしてくださった、証ししてくださったこと、それは「真っ白に輝く主イエスこそ、神の御子である」ということでした。
 このことはしかし、ここで初めて示されたことではありません。1章9節以下、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたときに既に宣言されていることです。けれども、その時、神の宣言を受けられたのは主イエスご自身のみですから、主が神の御子であることは、主イエスのみご存知のことでした。ですからこの3人の弟子たちはまだ知りません。白く輝く主イエスを目の当たりにしたとき、神がこの弟子たちに教えてくださったのです。

 このことは、この3人の弟子たちに特別に与えられた出来事です。まだ主イエスの十字架の前のことです。苦難と十字架への道を歩んでいるのだということは、既に弟子たちにも示されておりますから、これから先、主の苦難と十字架への歩みを見ていかなければならない弟子たちなのです。この3人の弟子たちは、ここであらかじめ「主イエスは神の御子である」ことを示されました。神は、「これから苦しみを受けられるお方こそ、神なる方である」ことを、ここであらかじめ弟子たちに示してくださっているのです。
 これは大事なことです。あらかじめ「主イエスは神の御子である」と示してくださっている、だからこそ後になって、苦難と十字架の後に、しみじみと「そうか、あの言葉は真実であったのだ」と知ることができるのです。ですからこの出来事は、そのことのための宣言であり、また啓示なのです。
 それゆえに、神は「これはわたしの愛する子」と言われ、「神の子、神そのものなる方、主イエスに聞け」と言われました。

 主イエスの御言葉に聴くことは、すなわち神の御言葉を聴くことです。そして、主イエスの御言葉に聴くということは、救いの恵みが豊かになることであり、それは神の民として整えられていくということです。

 8節「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」と続いております。神の声を聞き、そして主イエスを見ると、主の姿は元に戻っておりました。主イエスは、人としての姿に戻られるのです。この後、人としての苦難と死をなめつくされる方として、もう一度「人として」立ってくださるのです。「そういうお方として、主イエスは救い主であられる」のだということを、弟子たちはこの出来事を通して体験しているのであります。

 「救われた者」として、私どもは常に御言葉に聴き、養われ、神の民として整えられていくのだということを、改めてこの箇所を通して覚えたいと思います。

 そしてまた、真実な労働の恵みということを覚えたいと思います。
  今日は礼拝後、教会バザーをいたします。神の恵みを分かち合う業としてのバザーであることを覚えたいと思います。ここに神が臨み、働いてくださり祝してくださり、力を与えてくださるのです。そこにまさしく神の民とされている恵みがある、恵みを感じることができるのです。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ